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阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-3

ねね

こんにちわ。フリーランスママのねね(@nene__hot)です。

1995年1月阪神淡路大震災が発生した当時、私は神戸の被災中心地にいました。小学校4年生の時でした。

激しい揺れを経験し、友達を亡くしました。家も壊れました。その後大人になり、東京で東日本大震災を経験します。

小学生だった私が「震災」を経験したあとどのように成長していったのか、そして「震災」とどのように向き合ってきたのか、発生から25年という節目のこの年に振り返ってみることにします。

⬇第2弾はこちら⬇

阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-2

今回は震災から約3ヶ月経ちようやく元の小学校に通うことができるようになった4月からの生活についてお話します。

MEMO

※身バレを防ぐために当時の年齢など多少装飾しております。

※25年前のことです。一生懸命思い出しましたが、記憶間違いがあるかもしれません。ご容赦ください。

1クラス減った小学校生活のスタート

ねね

4月になって学校に戻ってくると1クラス無くなっていました

以前は4クラスあった学級数が3クラスに減っていました。震災で亡くなった子、親が亡くなった子、家が無くなり神戸に帰ってこれなかった人。

当時の1クラスですから約35人。友達がいなくなりました。

再開した友人とお互いどのように過ごしていたのかとか、そういう話はあまりしなかったと思います。ただ友達と久しぶりにあえて嬉しかったこと、先生に会えて嬉しかったこと、授業を受けられる喜び(日常生活が戻ってきた感覚)が嬉しかったです。

そして大人になってから当時の友人にこんなことを聞いてみました。

震災から4月までどのようにして過ごしていたの?

ねね

震災から4月までどのようにして過ごしていたの?

すると友人Aは…

友人A

ひたすら公園と家の往復だった

と言います。震災直後は一時東京に避難したそうですが、その子の家は無事だったのですぐに神戸に戻ってきたそうです。

ただ友達にも会えないし学校の再開も無かったので4月までひたすら遊んでたと笑。(もちろんこの間、学校からの配布プリントなどはなかったそうです)

4月になったらいきなり学年があがっていきなり学習がスタートしたけど困るようなことは無かったと言っていました。

友人Bは…

友人B

兵庫県内の別の区の小学校に通った

と言います。ただ習ってない漢字のテストがいきなりあったり、同じクラスの子にはさみやのりを貸してと言えず精神的にかなりつらかったと言っていました。

友人Aも友人Bも私より少し早く神戸に戻ってきていたのですが、授業は3月に入って1回別の小学校で開催されたけれど「授業」と呼べるものではなく「震災当時の記憶を振り返りましょう」といった内容だったそうです。

その後は4月まで授業再開は無かったそうです。(もしかしたら避難所にいた子たちは(小学校が避難所になっていたので)「青空授業」みたいなものを受けれていたのかもしれませんが、私の知り合いにはいませんでした)

そして私のいとこの友人は当時受験生でしたが彼も「学校からの臨時授業などは何も無かった」と言っていました。

ガスの復旧が3月のはじめごろ、水道の復旧が3月の末ごろでインフラも整っていない状況が長く続いたので「生きていくだけで精一杯」で「学びの保障」などは議論の焦点にならなかったのでは?と思います。

(※もしかしたら大人は考えてくれていたのかもしれませんが…。あと当時はSNSはおろか携帯電話も無い時代でしたので学生の声があがるようなことは無かったでしょうね。)

複数の友人が亡くなっていたことを知らされる

ねね

授業を再開してまもなく複数の友人が亡くなっていたことを知ります

毎日一緒に登下校中遊んでいたAくん、家にあそびにきたこともあるくらい仲良しだったBちゃん、同じクラスになったことは無かったけれどスポーツが得意で有名だったCくん…。

今、この記事を書きながらも胸が苦しくなります。

多くは家や家具などの倒壊による圧死でした。親御さんだけ助かった人、一家全員亡くなった人もいました。

当時の私はまだ「人が死ぬ」という感覚があまりよく分かりませんでした。

いなくなってしまったんだという事実のみ受け止めていたように思います。

亡くなった友人の家に行くことに

ねね

小学校生活がスタートしてしばらくたったころ、震災当時の担任に声をかけられます

先生

ねねちゃん。Aくんのお家に一緒に行かない?

Aくんとは帰り道が一緒でよく遊びながら帰っていました。Aくんは亡くなってしまったけれど親御さんは助かっていて、家も無事だったので当時の担任と仲良かった数人でお花をあげにいくことになりました。

ねね

Aくんの家に到着します。担任と親御さんがなにか話されていました。

 

私達は実感のないままAくんのお仏壇にお花をお供えします。

 

先生と親御さんは泣きながら会話をしています。

 

しばらくしてAくんの家をでました。すると先生が泣きながら…

 

こどもたちを連れてこなければよかったかもしれない。私、間違っていたかもしれない。

と。

当時、私はその言葉の意味が分かりませんでした。

きっと先生は「親御さんに、今元気に過ごしている子どもたちの姿を見せることによって、自分の子どもが亡くなってしまったことを再認識させてしまいつらい思いをさせたかもしれない」と思ったのかなと今では思います。

 

そんな帰り道・・・先生の泣き顔・・・とても印象に残っています。・・・夕日がきれいでした。

ー次につづく

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阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-2

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