ねね
1995年1月阪神淡路大震災が発生した当時、私は神戸の被災中心地にいました。小学校4年生の時でした。
激しい揺れを経験し、友達を亡くしました。家も壊れました。その後大人になり、東京で東日本大震災を経験します。
小学生だった私が「震災」を経験したあとどのように成長していったのか、そして「震災」とどのように向き合ってきたのか、発生から25年という節目のこの年に振り返ってみることにします。
※身バレを防ぐために当時の年齢など多少装飾しております。
※25年前のことです。一生懸命思い出しましたが、記憶間違いがあるかもしれません。ご容赦ください。
震災前日のワタシ
ねね
前日は学校はお休みでした。(後ほど調べたら3連休の最後の月曜日でしたね)
何をしていたのか詳しく覚えていないのですが、いつもどおり母と父と姉と仲良く過ごしていたんだと思います。
うっすら記憶にあるのが「オレンジジュース」
めったに買ってもらえない紙パックの大きなオレンジジュースを買ってもらえて「明日の朝に飲むねん!」と嬉しかったことを覚えています。
激しい揺れが起きる直前に
ねね
子供部屋で姉と一緒の2段ベッドです。私は上のベッドでした。
何時頃でしょうか…ふと目が覚めたんです。なぜか姉も目が覚めていました。
ぼーっとした意識の中、ひとことふたこと姉と会話している途中にいきなり窓から…
ピカーーッ!
と光が見えました。窓全体が明るくなるような光です。
地震の前兆みたいなもの(地震雲とか)は私は信じていないのですが、こればっかりは私の記憶にしっかり残っているのでおそらく光っていたのは事実だと思うんです。(よくよく考えてみると電線が切れたとかかもしれませんね)
光った!と思ったら激しい揺れが始まりました
震度7のその中で
1995年1月17日5:46
ドーーーン!!と下から突き上げるような揺れでした。その後ゆっくり横に揺れ始め、激しい横揺れが始まります。
当時小学4年生だった私はもちろん何が起きたのかよくわからない。揺れが激しくなる中、父の声が響き渡ります。
「地震や!!!!!」
私は布団の中にもぐりながらひたすら揺れがおさまるのを待っていました。激しい揺れの中でなんどもベッドに頭を打ち付けます。揺れにあらがうことができず、右に左に体がもっていかれて頭がベッドの左右の枠にあたるのです。
姉もパニックになっていました。泣きながら…
「ねね!!大丈夫!!?大丈夫!!?返事して!!!早く降りておいで!!!」
と2段ベッドの上にいる私によびかけます。ですが私は声を出すこともできず、もちろん揺れの中で下におりることもできません。
何秒くらいたったのでしょうか…。少し揺れがおさまったときに私はさっと姉の元へおりました。姉がそばにいると思うと安心したのか、その後も少し揺れるのですがギューッと姉につかまりとにかく姉がいると大丈夫だと思えました。
閉じ込められたワタシたち
ねね
まだ夜は完全にあけておらず部屋はうっすら暗い。
母の声が響き渡ります。
「ねねーーー!!!もも(姉)ーーーー!!大丈夫!?大丈夫!!!?」
パニックになった母の声。
「大丈夫―――!」「大丈夫だよ!!」
返事をしたもののどうやって部屋から抜け出せばいいのかわからない。
私たちは閉じ込められてしまいました。勉強机や椅子・引き出し・洋服タンスが全部倒れていて、折り重なるようにドアの前をふさいでいます。
そんな状態の中、父と母の声が聞こえます。
「懐中電灯!!懐中電灯どこや!!!」
「あそこちゃうか??」
「あ!!!痛っ!!!」(ガラスの破片が散らばっていて足を怪我した)
「電池入ってないやん!!電池どこや!!」
「こっちや!!」
「ももーー!!ねねーー!!大丈夫!!?大丈夫か!!?」
混乱した父と母をよそに、小学生6年生と4年生だった私達は「とりあえず大丈夫だったこと」「なにかすごいことが起きたこと」だけは認識していたもののその大変さや親の心配する気持ちなど全くわからず、ときおり笑いながらなにか会話をしていたように思います。
「お姉ちゃんめっちゃおっきい声だしとったな笑」
「そりゃ心配やからやろ!」
互いの手をずっと握りながら。
父と母が近くにやってきました。子供部屋のドアを開けようとするのですが…
ガチャガチャ!!
「あかへんやん!!!どうすんのこれ!!!あかへん!!どうしよう!」
「任せろ。」
ガチャガチャ!!
「大丈夫――!?大丈夫か!!?」
「大丈夫やで」
この会話を何回も繰り返したように思います。
バコっっっ!!
とうとう父がドアノブが曲がるくらいのちからでドアを押し、ドアを壊して、子供1人が通れるくらいのわずかな隙間を確保することができました。その隙間から私達は外へ抜け出すことができたのです。
夜明けとともに見違える世界
子供部屋の外にでると、緊張の糸がほどけたのか私は廊下に座り込みました。リビングをちらっと目だけで確認しましたが、食器棚、冷蔵庫、部屋の電球、父の机やパソコン、ダイニングテーブル、全てが倒れて中にしまっていたものも飛び出していてぐちゃぐちゃでした。
冷蔵庫の中身が全部飛び出ているのをみて…
「あ…オレンジジュース、飲みたかったのにな」
そんなことを思っていました。
母が慌てて電話をしています。当時携帯電話なんてなかったので、固定電話ですぐに岡山にいる母の姉に電話をしているようでした。奇跡的に繋がって、家族全員の無事を知らせているようです。
「もうあかん…もうめちゃくちゃや…もうあかんわ…」
そんな母の会話だけ覚えています。そして電話できたのはその1回だけですぐに繋がらなくなりました。
父は「ちょっと様子を見てくる」と外へ。母は私達に寄り添い「洋服が取り出せないから、とりあえずこれ着とき」と昨日着ていて今日洗濯するはずだった洋服を私達に渡して、パジャマから洋服に着替えることになりました。
そんな中、余震は続きます。
グラグラ…
揺れ始めると母と3人でぎゅっとお互いを抱きしめ固まります。揺れがおさまったときに母が冗談半分で…
「こんど揺れがきたらこうやって両手で壁をおさえるんやで」
といいます。
「こう?」
と私と姉で笑いながら廊下の壁をおさえます。揺れがあっても私達には日常の一部で、冗談を言い合う時間はありました。今思うとそうでもしていないと恐怖で押しつぶされそうになるからだったのかもしれません。
しばらくすると父が帰ってきました。
「あかん…全滅や…あっちもこっちも全部家が潰れとる」
母と父がしばらくなにか話していると、大きい余震がきます。
「外に出ぇ!!早く!」
私達は全員家の外へでました。隣に住んでいたおばあちゃんも飛び出してきたみたいで私達と顔を合わせて…
「いや〜…。なんでこんなん持ってきちゃったんやろ」
手には1つのみかん。私とおばあちゃんはみかんとお互いの顔を見ながら少し笑いました。
しばらくしてから、父が…
「車をとりにいってくる」
と言いました。
父と母がどのような会話をしてこういう結論にいたったのか子供の私にはわかりません。ですがとりあえず尼崎にある祖母が住んでいる家へ避難しようということになりました。
(あとから父と母に聞きましたが当時は尼崎が無事かどうかも分からなかったとのことです。道路はぐちゃぐちゃで行けるかどうかも分からなかったけれどとにかくここから離れる決断をしたそうです)
車が到着して姉と一緒に乗り込みます。
車の中から外の景色を見ると…
写真提供:神戸市 ※当時住んでいた場所の近くの写真です
昨日まで歩いていた道路。
昨日まで存在していた木造住宅。
全部がぐちゃぐちゃでした。
もう…。それは…。道路はひび割れてところどころ隆起していて、木造一軒家はほぼ全部1階が押しつぶされていました。私達はマンションだったから命拾いしただけでした。
そしてマンションでも1階が駐車場のマンションは構造が弱いのか、新築のマンションでも柱にヒビが入っていたりところどころ崩れていました。(当時のマンションの構造の話です)
私は尼崎に向かう車の中でどんな会話をしたのか覚えていません。そしてこれから自分がどうなるのかなんて想像もできませんでした。
ここから私の疎開生活が始まります。
⬇続きのお話はこちら⬇
阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-2
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