ねね
1995年1月阪神淡路大震災が発生した当時、私は神戸の被災中心地にいました。小学校4年生の時でした。
激しい揺れを経験し、友達を亡くしました。家も壊れました。その後大人になり、東京で東日本大震災を経験します。
小学生だった私が「震災」を経験したあとどのように成長していったのか、そして「震災」とどのように向き合ってきたのか、発生から25年という節目のこの年に振り返ってみることにします。
⬇第1弾はこちら⬇
阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-1今回は被災した家から車で脱出して尼崎の祖母の家で始まった疎開生活をお話します。
※身バレを防ぐために当時の年齢など多少装飾しております。
※25年前のことです。一生懸命思い出しましたが、記憶間違いがあるかもしれません。ご容赦ください。
祖母の家で過ごした数週間
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母に先日聞いてみたら、いつもよりもかなりの時間がかかったし、西宮市あたりでは道路が陥没していてもう進めないと思ったそうです。ですがなんとかして尼崎にある祖母の家にたどり着きました。
祖母の家は無事でした。
祖母の家では確か1~2週間過ごしていたと思います。当時小学校4年生だった私は…
「ゲームたくさんできてラッキーやな」
くらいにしか感じていなかったです。あと祖母の家で寝る時に天井の模様が怖かったとか。
はっきり覚えていることと言えば、到着したその日の夜に母がお風呂に入ろうとすると…
「え・・・・!?なんやこれ!!」
との声。
母の左半身全体に大きな青あざができていたんです。
母と父は大きな洋服ダンスが2つある部屋で寝ていました。地震の激しい揺れでタンスが母と父の寝ている布団へ倒れてきます。
ですがタンスの上に置いていたダンボールが地震の揺れで先に落ちたために、ちょうど母とタンスのあいだにダンボールがはさまり小さな空間ができたため、タンスが倒れてきても母と父はタンスの下敷きにならずにすんだのでした。
それでもとてつもない激しい揺れだったので母も倒れてきたタンスに体を強く打ち付けたのでしょう、
母はお風呂に入るまで痛みに気づかなかったそうです。ずっと気をはっていたからと。
岡山のいとこの家に預けられたワタシたち
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家に帰ろうにも電気もガスも水道も止まっていて生活ができません。当時、火事場泥棒の噂も流れ始めて両親も度々神戸の家の様子を見に行かなくてはいけませんでした。
そういった背景から姉妹2人だけいとこの家に預けられて、いとこと一緒の小学校に通うことになります。
初めての転校、初めての環境、初めて親と離れて暮らす。
そのときの私の気持ちとしては「お姉ちゃんといとこがいるから大丈夫!」だったんですが、自分でも意識していない部分で体に変化があらわれるようになりました。
トイレをしようと思ってもトイレに間に合わない。
この記事を書きながら調べて初めて知りましたがこどものトラウマの一種に「排泄の失敗」があるそうですね。小学校4年生なのにおもらしをすることが度々ありました。精神的な負担が大きかったんだと今では思います。
岡山の学校での生活
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校長先生と付き添いできていた母が何やらお話をしていて私たち姉妹はそれをおとなしく聞いていました。その後担任の先生と自分のクラスに行きます。
「ねねさんは大変な思いをされてこの小学校にくることになりました。みなさん仲良くしてあげてくださいね。」
こんな感じの挨拶だったかなと思います。
岡山の小学校ではとにかくわたしは「馴染む」ことに必死でした。震災のことなど気にかける余裕はなく、とにかくクラスで2つに分かれている女子グループのどちらに所属するのか?そういったことをクラスの女の子にも聞かれたし自分もかなり気を遣っていました。
方言の違いもありました。少し小馬鹿にされることもあったけれど、それは小学生同士でふざけあいながらだんだん打ち解けていったように思います。
クラスに慣れてくると先生から「震災のときの話をしてくれますか?」と授業中に話を振られました。
クラスのみんなの前にたって震災の体験を話したことを覚えています。
行事の内容が違ったり、給食の内容が違ったり、本読みの方言が違ったり、色んな違いはあったけれど最終的にはみんな仲良く遊んでくれるようになって岡山での小学校生活では楽しい思い出をたくさん作ることができました。
私は1月17日から3月末までの2ヶ月半、岡山の小学校に通いました。
震災発生から2ヶ月半のあいだ-両親や家の様子は?-
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あとから聞いた話ですが、父は震災から1週間ほどで会社に行かねばならなかったそうです。尼崎から神戸への通勤。電車も途中までしかなく、駅を降りてから長い距離を歩く毎日だったと言っていました。
震災発生から2~3週間で電気が通るようになります。
この頃から私たちは岡山の学校へ通い、両親は尼崎の祖母の家を拠点とし、神戸の家に通いながら家の片付けをはじめました。
神戸では電気しか通っていないので、電気でお湯をあたためてご飯を作ったりしていたそうです。私は岡山で過ごしていたのでこの頃の両親がどう過ごしていたのかこれ以上の情報はわかりません。
ガスは3月に入ってからようやく供給が開始されたために、姉が小学校6年生で卒業式を控えていたこともあり、私たち姉妹は1995年3月に神戸へと帰ることになりました。
1995年3月神戸の家に帰る
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両親が部屋をきれいに片付けてくれていたので部屋はとてもきれいでした。
ただ震災の爪痕はわずかながら残っています。窓ガラスにはガムテープが貼られていて、子供部屋のドアノブはあのとき壊れたまま…。
この頃はまだ水道が復旧していませんでした。わずかな記憶で残っているのが自衛隊の給水車にお世話になったこと。
写真提供:神戸市 ※当時私が住んでいた場所の近くの写真です
当時は水をもらうのに「1人につきペットボトル1本だけ」というルールがありました。なので母が…
「あんたも…小さいけどいけるやろ!がんばって持ちや!」
といって私に空の2リットルペットボトルをもたせて、私は自衛隊の給水車にならんでお水をもらいました。
まだお風呂も入れなかったので小学校にある自衛隊が設置してくれたお風呂にも入りました。のちのち母が…
「お父さんは1人で入れていいけど、私はこども2人連れていかなあかんし人もぎょうさんおるからほんまに大変やったんやで!」
とよく言っていました😅
トイレももちろん使えないのでマンションに設置された仮設トイレを利用しました。初めてのボットン便所で…。悪臭が強烈だったのでよく覚えています…。
母が当時のことをふりかえって…
「お風呂に行った時にふと言われたわ。あんたんとこは家が残ってていいよな。うちんとこはもう…(ないんや)。と。」
震災で何もかもを失ってしまった人、そうではなかった人、そこに溝はどうしても生まれてしまうだろうし、極限状態の中でリアルな「人間模様」がそこにあったんだなと感じさせられました。
私たちが神戸に帰ってから1週間程度でしょうか。水道も復旧してライフラインがすべて整いました。
私はこの頃の記憶はあまりないのですが、姉の卒業式が別の地域の中学校で開催されたそうです。母から伝え聞いた内容ですが…
「会場の中ではすすり泣く声がたくさんあった。それは感動の涙やない。悲しみの涙や」
姉の同級生が亡くなっていました。遺影での卒業式でした。亡くなった子の親御さんの姿はとてもじゃないけど見てられなかったと…。
参加する親も立派なスーツは(無くなって)着れないし化粧をしてない人もたくさんいたと。そんな中、逆にきれいに着飾っている親御さんがいれば、何やのあのひと…と後ろ指をさされたといいます。
そして私は4月からようやく神戸の小学校へ通い始めることになります。
ー次につづく
⬇第3弾はこちら⬇
阪神淡路大震災で震度7を経験した小学生のワタシの人生-3
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